つまらない人生ってナニ?
よく同年代の人とかが、
「つまらない、レールに敷かれた人生なんてまっぴら御免だ!平凡な人生なんて歩まん!」
みたいなことを言ってるのを目にします。
まって、、
ツマラナイ、ジンセイ??????
ッテナニ?!?!
つまらない人生を送れるほど人生って甘くなくないですか???
私はまだ19歳で、アメリカに高校卒業後に来て、そりゃあ何にもしらないですよ。
でも人生って退屈するほど単調なものだとは思えないんですよね。
地味で平凡に見えても、それだけですむほど人生は単純じゃないと思います。
みんな苦しみや葛藤を抱えて、それでもなおそれを見せずに頑張って生きてる。見えてる部分だけで人を判断するなんて薄っぺらいにもほどがある。つまらなく終われるほど人生ってつまんなくない。
そして苦しみには人の尺度がある。
そんなことと思えるようなものでも、それはその人にとったら自殺したいと思うほど苦しいものかもしれないし、そんなことと思えるようなものでも、問題の根はすごく深いかもしれない。
お気楽そうな主婦でも、もしかしたらママ友問題で精神病直前かもしれないし、もしかしたら旦那さんの浮気問題に頭を抱えてるかもしれない。
エリートで羨ましいって妬まれてるような人でも、もしかしたら会社が倒産して無一文になるかもしれない。
平凡そうなサラリーマンだって彼女と結婚しようと思っていたのに振られてしまって絶望から不眠症に苦しんでるかもしれない。
人生なんて全て無常で、全て移りゆくもの。
盛者必衰の理というように、妬ましいほどのお金持ちもいつかは廃れてしまう。
そんな怒涛の世の中に身を置いている70億人で、つまらない人生なんかあるだろうか?
人と比べて、あの人と比べたら私の人生なんてつまらない…って思うこともあるけど、みんな目の前のことに挑戦して、自己を保って、同時に自然と融和している。みんな生きて行くのに必死。みんなみんな頑張ってる。
こんな世の中に生きてるだけでもみんな大変よくできました💮だよね。
大人になればなるほど責任が重くなって、自分だけでなく、いろんな人の人生まで背負わなきゃいけなくなることもあるけど、それをなんにも加味せずにつまらないって一言に言えてしまうなんて、
何も知らないって若くて、もはや素敵だなー
とすら、19歳が思ってしまう。
生きているうちに、会わないと
アメリカに来てから頻繁に思うことがある。
それは、
「会いたい人には、会えるうちに会わないと後で後悔する」
ってこと。
昨日が今日につながり、今日が明日に、明日が明後日にとつながって行くのが日常だと信じきっている私たちは若い。
私たちは意識していないけど、無責任で自由だから寝たら朝がやって来るのを疑わない。
でも、本当に誰にとったって人生なんていつ何が起きるかわからない。
私は自分の意思と少しの意地で、目標を達成するまでは日本に帰らないって決めているけど、そんなものののために、残り一年のうちに、大切な人を失って一生後悔してしまったらどうしようっていう不安を毎日抱えている。
この前おじいちゃんと久しぶりに電話した。
去年の年末に話したばかりだし電話口から、いつものおきまりの言葉から他愛もない話に発展して、おじいちゃんのことだから照れ臭そうに、それじゃあ頑張ってな!ってそそくさと電話を切ることまで全部想像していたのに。
いざおじいちゃんの声を聞いたら涙が出て来た。
離れていて、生きて、ちゃんとまだ会える場所にいるのかが確実じゃなかったからこそ、当たり前のようだけど声が聞けたことが心底嬉しかった。
でもこんなのはもちろんおじいちゃんだけに限ったことじゃない。
パパ、ママ、お姉ちゃん、高校の友達………。
みんなみんな会いたいと思った時に会わないとダメなんだって思った。
そりゃあそれを覚悟してこっちに来たのは事実だけど、せめて目標を達成したあとは、一年に一回くらいは会いたい。
会いたいって思う人には心的にも支えられてるわけだし、これから先友達なんかには大人になるにつれ会えなくなって行く。
会いたい人には会いたい時に会っておかないとな。
後悔は絶対したくないもんなあ。
社会的イメージに頼ってはいけないと感じた日
こんちゃ!
一昨日(木曜日)は最悪な日でした…………
お昼ご飯の後に、次の授業が始まるまで彼氏とホールフーズに飲み物とか小さいものを買いに行ったんですよ。
私は体脂肪のいちごミルクを買って、彼はコーヒーを買って、中の座るところで飲んでいたのですが、いちごみるくがなんか変。
飲んだ瞬間、ヨーグルトみたいな重い食感のどろっとした液体が口の中に流れ込んできた。
こういうタイプのものなのかなと思いつつ飲んでいて、これ変な飲み物だよーって彼氏に飲ませたところ、いやこれまじで変だよ。となり、ストローを上げてみると明らかに牛乳が固まっている。
これ、腐ってるよ。
って言われて、私はそこまで変だ変だと思っていながら、腐っているという発想が全く出てこなかった。
そして賞味期限を見てみると、なんと3ヶ月超え。
臭いは普通だったけど、怖くなって速攻カスタマーズサービスへ。
リファンドと欲しい飲み物を無料であげるって言われたけど、正直3ヶ月過ぎててそれだけ??って思った。
そしてその後、そのいちごミルクが売っていた棚を覗きに行ってみると……
なんと全てが最低3ヶ月過ぎ。
変だ変だと思っていながらも、ホールフーズだから、高いし大丈夫っていう絶対的安心感があったから腐ってるとかすらも考えつかなかった。
実際、安全安心はお金で買うっていうアメリカだからこそ、そんなことはありえないって思い込んでるのは危険。
どこだとしてもここはアメリカ。
日本だって全部安心だなんて思うのは危険。
偏見にとらわれて疑うことをしなくなるというのは本当に怖いことだなと実感した日でした。
皆さんもホールフーズなどであってもくれぐれも気をつけてください…
では!
私がブログとSNSを続ける理由
こんちゃ!最近更新率低いけど暖かくお見守りください〜
こんな記事書いて欲しい!とか、留学できになる!とかいうことがあればコメントかツイッターにてどんどんお伝えください!
備忘録とは言え、少しは留学したいと思っている人の役にも立ちたいので・・・!
今日は私がブログやSNSを続ける理由を書いていきたいと思います〜
私はそもそも「思い出と記憶」と「経験」というものの位置付けをはっきりと分けています。辞書の意味とは違いますが、あくまで私の認識ということで!
私がこれまでにしてきた行動、行ってきた発言などの行ったことの全ては「思い出と記憶」です。それはまだ「経験」というまでには落ちてきておらず、記憶の中にある状態だと私は思っています。
「私は本当にこれをして、これを学んだんだ!」と自分の考えの、脳みその一部にまで落とし込む(=経験にする)には、文章化して形にすることが必要だと思っています。
そうすることでただの記憶からやっと経験になるのだと私は思っています。
だって受験や就職面接の時にあなたは何をしましたか?って聞かれて、アメリカに留学していましたって言ったって、それはあなたが行ったただの思い出で、細かく教えてくださいって言われても瞬時に答えられないですよね?
それが経験にまでなってないってことです。
自分がやってきたことを文字に興して感情や思考を整理するまでがフルセットだと思っています。
だって身の回りに毎日おこるそんなたくさんの物事を一気に "know" できても "understand"できてるはずがないので、 文章化して自分に説明をしないとすべて "understand" できていないほわっとした毎日になってしまうと思うんです。
自分の感情や思考を文章化して可視化させるということは、とても大切で、でも案外難しいものです。だからこそ、「思い出や記憶」が「経験」になって自分の思考形成の一つになっていくと私は思っています。
だからこそまずは自分で自分に世界や人生の説明をするために、ブログやSNSをしています。
そして前にも書いたと思うんですけど、60年後とかになったら自分が本当にアメリカに留学していたかどうかなんてことすら曖昧になっちゃうと思うんです。だから私はいつ、どこで、どんなことを考えて、どう本当に存在していたかを記すための備忘録、存在証明録としてブログやSNSをやっています。
あとは、ブログにしても、ツイッターにしても、インスタにしても、私はこういうことを考えてるようなこういう人間だー!!っていう履歴書でもあるし、毎日綴る遺書でも伝記でもある。
それくらい私にとってブログとSNSは大事なもの。文章って、言語って、それくらい大事なもの。
それがさらに、今から留学したいなって思ってる人の役に少しでもたつんならなおさらやめる理由なんてないし、続ける理由しかない。
そんな理由で私はブログとSNSを続けています!
では今日はこんなところで!今から数学の授業いってきまーす!
どれが自分の性格?どれが自分?
私は高校生の時によく考えてたことがある。
それは、「どれが自分の性格なのか?どれが本当の自分なのか?」ということだ。
私は小さい頃から元気で活発で委員長にいつも立候補するようなタイプだったし、目立つのも大好きだった。
と、周りによく言われていた。
両親にも色んな大人の人たちにも。
でもそれが、私が本当に好きでやっていたのか、周りからそう言われていたから、そうしなければならないっていう、いわば軽い強迫観念的なものからくることなのか、わからない。
みんな場に適した性格を持ってる。
わたしは、人間の性格というのは、接する相手によってその間に生まれるものだと思ってる。
図に書くと、
こうじゃなくて
こうだと思ってる。
小さい頃は単純だし、みんなの期待に応えたいが為に周りが求めることをしようとするから、あなたは明るいとかあなたは積極的っていうような育て方をすると自然と子供は「そうなんだ!じゃあそうならなきゃ!」って思うようになる。
でも大人になるにつれ、人ごとに性格が変わって行く自分を見て「自分は本当に明るい積極的な性格なのか?」と悩むようになり、自分をどう説明したらいいのかわからなくなる。
それがわたしの高校時代。
さっき貼り付けた図はなんか当たり前のように思えるけど、あれを見つけたあとはアイデンティティについて悩まなくなった。
自分を説明するって難しい。ありのままの自分とはそもそもなんなのか。ありのままでいるいうことはアイデンティティについて考えることを放棄することとも捉えられる。
でもその一方で、自分なんて説明できないのだし、たとえ説明できたとしてもそれに縛られることになるから、ありのままの自分でいるということは楽なことなのかもしれない。
でも私はこう思う。
自分とはなんなのか、ということは一生かけても一言で説明することは無理だが、自分とは?という問いをし続けることによって自分という存在を維持できると。
本当に自分とは何かということを発見する必要はないが、その問いをやめた時点で、あなたはあなたであることを放棄することになる。
と、そう思う。
常に自分と向き合うことは辛く大変だが、自分を見ることで相手を理解できるかもしれないし、相手を理解することでさらにそれを自分に当てはめて考えられる。
人生とは自己と他者の間で交わされる、予測ゲームの連続であると思ったこの頃である。