シリコンバレーの大学生日記

シリコンバレーのカレッジに2016年秋に入学し、2年後カリフォルニア大学へ編入する留学日記で…。したが、なぜかオランダのLeiden Universityに2018秋に入学することになり最近は弁護士になりたい私のジャーニー記録です。Twitter @Japan__America

自由を強制される不自由

 

 

アメリカは自由であることが強制されすぎてる気がする。

 

 

アメリカは人種もなにもかもが多種多様だから、自由でないとやってらんないのかもしれないけど、自由でないといけないっていうプレッシャーをカリフォルニアでは特に感じる。

 

 

 

LGBTをはじめとする社会的マイノリティは、やっぱりマイノリティであって、大多数とは違うわけだから、容認されない社会を責めるのはお門違いだと思う。

 

 

それで活動をしてる人たちはもちろん素晴らしいけどもね!!

 

 

LGBTを例にとって言うと、それを生理的に本当に受け付けない人もいるわけで、逆にそれをリベラルじゃない!!って批判するのこそリベラルじゃない。

 

 

寛容であるって定義難しいよね。

 

 

寛容であるために寛容でない人に寛容でなくなるんだもん。

 

 

見たものをそのまんま見たまま飲み込めるってのが本当の自由主義だよね。

 

 

 

でも寛容であることは本当に良いことなのか?っていう疑問が頭に浮かんだ。

 

 

日本でLGBTだとかジェンダーだとかが問題になるのって完全にアメリカナイズされた結果じゃん?いちいち比較して自由にならなければならないって強制されるのってむしろ窮屈じゃないかな?

 

 

確かに自由で寛容な社会はいいかもしれない。でもそれのせいで失われてるものもたくさんある。特に考え方。

 

 

歴史ゆえの日本人の考え方を持ってるのに行動だけを違う形で遂行していくことのギャップはこれからなにを壊してなにを生み出していくだろう?

 

日本人はそのギャップに耐えられる性質を持っているから、そのスキルがこれからどちらを多く生産するだろう?

 

 

正しいことが社会的に良いことだとは限らないし、自由が正しいことかもわからない。

 

 

 

全員に利益な社会なんて存在し得ないし、言い方悪いかもしれないけど、マイノリティは自分可哀想で社会のせいにする前に、それが当たり前なことだと受け入れて、解決策を考えて前に進めていく必要がある。

 

それはなんでもそう。

 

 

 

そしてリベラルというのは、リベラルであるということで自分をよく見せるためにつかう道具なのではなくて、目の前のことものを見たまま飲み込んで消化することだ。

 

 

だから自由という言葉の元にすべてが正当化されるような、道具としての自由はなんかおかしいし、自由であることを強制される社会はとっても不自由だと感じた夜でした。

 

 

 

では読者を意識した記事はまた今度から書き始めます。お休みなさい〜