猫は後悔するか?
高校の時に読んで私が哲学に興味を持つきっかけとなった評論文はたくさんあります。
そのうちの一つが野矢茂樹さんの「猫は後悔するか」です。
猫って性格的にものんびり生きてて別に後悔しなさそうですよね。笑
でもこの評論文ではそんなことではなくなぜ猫は後悔しないのかについてが論理的に、哲学的に書いてあります。
そもそも私たちが後悔するのは起こらなかったことを想像できるから。
例えばアメリカに留学しないかするかで迷って、結局留学しなかったとしましょう。その時に、留学することを選択できたなという、現実とは反する選択肢を想像できますよね?そして留学するという選択肢を選ばなかったことに”後悔”という形で現実に反することに思いを馳せることができますよね。
私たちがこういう想像をできるのは何故なんでしょう?私たちが遭遇するものは現実世界に起こったことだけなのに、何故起こらなかった”可能性”の世界について考えられるのでしょうか?
言語というのはただの意思疎通のツールではなく、この世界を分解するツールでもあるのです。
例えばビールがテーブルの上においてあった時、当たり前ながら私たちは「テーブルの上にビールがおいてある」と認識することができます。しかしそれは私たちが言語を持っているから可能なこと。もし「ビール」や「テーブル」に名前がなかったとするとそれはテーブル+ビールの一つのものになってしまいます。
そうして考えていくと、もしこの世界に言語が存在しなかったら世界中の全てのものがすべてくっついた「一つのモノ」ということになってしまいますよね。なので言語はこの世界のモノを分解するツールであると言えます。
さらにその言語も文章にした時に文節ごとに区切られなければならない。
というのは、「テーブルの / 上に / ビールが / ある」と区切られていることによって、一つの言葉を他の言葉に変えることができます。というのは、「テーブルの / 上に / ビールが / ある」のビールをヘッドホンに変えた時「テーブルの / 上に / ヘッドホンが / ある」と説明することができますよね。さらには「テーブルの / 上に / ビールが / ない」という全く反対のことも、実際にビールがあるのに考えられます。
これはさっきの留学する / しないのことのように、私たちは目の前の現実とは反することを考えることが言語によって可能になっているということです。
これより私たちは分解された世界を認識しているだけではなく、可能性を想像することができるという能力を言語によってもたらされているというわけです!
すなわち、言語が文節化されていることによってこの世界を分解できるのが人間であり、それができない動物はこの世界の分解も可能性の想像もできないということ!
なので可能性の想像ができなければ後悔もできない。という流れな訳です。
だから猫は水をひっくり返してしまって飲めなくても、「ひっくり返さないで飲めた」という、”現実には起こらなかったこと”を考えることができないので後悔はできないという!
これ初めて読んだときは衝撃でしたね。うおおおおおおおおおおおおおおおみたいな感じが脳みそを駆け巡りました。まあ猫がそんな言語を持っていないと言い切ることはできませんがね。。。
この他にも鷲田清一さんのモードの視線や夏目漱石の夢十夜などもう高校生の私に革命を起こしまくった人たちもたくさんいるので今日みたいに時間があって気が向いたら書きたいと思います〜
では!