私たちは困った人を助けなければ『ならない』のか?
倫理学とは、
何が道徳的な行いなのか?正しいや間違っていることは何か?という問いはもちろん、なぜ私たちが正しいと思う行いは正しいのか?倫理の正しい絶対的法則というのもはあるのか?
ということを突き詰めていく学問分野です。
考えてみると不思議ですよね。
何が正しいかって一見すると相対的な、人によって、シチュエーションによって違う感じがしますよね。でも、「生まれたばかりの赤ちゃんを虐待する」とか「無実の人を快楽のために殺す」とかは全員一致で間違った行為だとみなします。
何故なんでしょう?全員が一致してこれは間違っている!と言えることがあるとしたらそこには何か法則がありそうですよね。
こうして今まで実にたくさんの哲学者たちが私たちが間違ってる / 正しいとする根拠はなんなのかということを考え続けてきました。
ここで今日紹介したいのは「功利主義」。知ってる人も多いかもしれませんが、功利主義とは一言でまとめると最大多数の最大幸福です。
これまた有名な例を使いますが功利主義を理解するには「トロッコの比喩」がわかりやすいです。
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
功利主義者は倫理的に正しい問題は数で決まるとするので、真っ先にレバーを押せ!というでしょう。それがより多くの人を助ける正義だから。
ここまではみなさん納得ですよね。それではどれだけの人数が助かるかというのを倫理の大原則とすればいいのでしょうか?そうすれば裁判所の法廷での有罪無罪やら罪の重さはものすごくシンプルに決めることができますよね?
ではもし制御不能なトロッコを太った人1人を橋から突き落とすことで5人を救えるとしましょう。先ほどレバーを押すと答えた人はこの人物を橋から突き落としますか?
この二つは同じことです。こうなってくると、うーん。となりますよね。
無論、功利主義者たちはもちろんこの人物を突き落として五人を救え!というでしょう。この辺から功利主義的な数の原理が本当に倫理的な絶対法則と言えるか怪しくなってきましたね。
そして次にこれはどうでしょう。
臓器移植が100%成功する未来を仮定して、8人の臓器不全の人たちがいるとします。この8人は末期状態で早く臓器移植をしないと死んでしまいます。そこでランダムな抽選で1人を選んでこの8人に臓器を配るとしましょう。これは倫理的にどうですか?
もちろん功利主義は1人で8人助けられるならそれは倫理的に正しい行為だと言います。
これ、もうおかしいですよね。いくらたくさんの人が助けられるといえ、この1人の犠牲は許しがたい。しかし私たちがこう思うのはなんでなんでしょう?こうみると数の原理以外にも私たちがベースに持っている倫理観は他にありそうです。
では続いて、
ルークという不思議な力を持った男がいるとします。彼はただ額を触れるだけで誰でもなんの病気でも治す事が出来ます。さて、もし功利主義が正しいとすれば、彼が休暇を取るのは倫理的に間違った行為でしょうか?彼が休暇を取るたびに助けられる人の数が減ります。
この辺まで来ると少し何かわかってきそうですよね。
つまり個人の選択の自由やオートノミーも大事だと私たちは思っているということがうっすら見えてきました。
オートノミー:「自分の行為を主体的に規制すること。 外部からの支配や制御から脱して、自身の立てた規範に従って行動すること。」 であり、哲学分野での用語としては「カントの倫理学において根本をなす観念。
できるだけ人を助け、救い、幸せにすることで世の中をよくしていくことは大事ですが、同時に個人の選択の自由や、他人にコントロールされず自分の幸せを追い求めることも大事ですよね。
そしてこれはどうでしょう。
ある白人がある黒人によって殺害されました。それから街の白人たちがこぞってプロテストや暴動を起こし、街は緊張感に包まれていました。そんな中その街にふらっと黒人のホームレスがやってきました。この黒人のホームレスは無実ですが、この人物を有罪として牢獄に入れればさらなる暴動による殺人や殺傷、建物の破損、損害を防ぐ事が出来ます。無実のホームレスの黒人に濡れ衣を着せるべきでしょうか?
権利も自由もあったもんじゃないですよね。功利主義は、ここまでの最悪のケースを倫理的に正しいと容認出来てしまうことになります。
私は権利や個人の選択の自由やオートノミーが重要とするのでこのようなケースを正しいとはしませんが、私たちの直感でこういったケースを正しいとしている場合はたくさんあります。そして時にやむを得ないから仕方がないと思う場合も少なからずあるので功利主義は明らかにおかしい!とは言い切れないという人もいると思います。
ここら辺でじんわりと浮き上がる疑問は、「私たちは世の中に存在する自分以外のことにも責任を持たなければならないのか?」ということです。みんな一致で人を助けることはいいことだとしますが、どこまで自分を犠牲にして責任を持たないといけないのでしょうか?
ここが倫理の難しいところです。私たちの頼る「道徳的な正当性」と現実世界のケースでの「道徳的な行い」が違ってしまう場合が多いのです。
よくインターネットで "なぜ動画をとってるだけでこの人を助けなかったのか?" って議論見かけますよね。助けるか助けないかは個人の自由。そもそも自分以外の世の中の動きに責任をもつ必要はないから。と私は考えています。
私は、この選択できる自由とオートノミーに「人間であることの価値」を見出しているので、以上のどのケースでも何もしないことか、何もしない事が出来ない場合は自殺するという選択肢を選びそうです。一番初めのトロッコはレバーを押す事が他殺になってしまうので何人亡くなったとしてもトロッコの事故の責任です。私の責任ではありません。
もちろんこの私の考えで、私の人間的な直感と現実世界での行動と一致するかはわかりません。やはり直感的に数の原理を使ってしまうこともあるでしょうし。
でももし何もしなかったことで絶望的になる事があったとしても、そもそもこの世の全てのことに責任を感じることはないし、何もしなかった事が倫理的に間違ってることもない。
以上のケースば全て、どっちに転がっても倫理的に正しいかわからないという究極な状況なのでね。
まあそんな感じで倫理のことを語ってみましたがいい感じに疲れて何書いてるかわからなくなってきたのでこの辺で…
あでぃおーす!