シリコンバレーの大学生日記

シリコンバレーのカレッジに2016年秋に入学し、2年後カリフォルニア大学へ編入する留学日記で…。したが、なぜかオランダのLeiden Universityに2018秋に入学することになり最近は弁護士になりたい私のジャーニー記録です。Twitter @Japan__America

スプーンを作る意味は、カレーを食べてる人を見た時にしかわからない

モヤモヤした人のイラスト(男性)

 

「私、なんでこんなことしてるんだろう?」

 

「今やってるこの意味はなんなんだろう」

 

 

これ、みんな一度は考えたことあると思います。

 

 

私もオランダで暮らした時本当に全てが辛すぎて正直オランダが嫌いでした。

オランダにいたときは「ここにいる意味はないし、早くここから出て行きたい」といつも思っていました。

 

でも今オランダを離れて五ヶ月くらい経って、オランダでの経験が自分の考え方に影響してることに気づいた時から、ヨーロッパに暮らした意味やポジティブなことを考えられるようになってきました。

 

これがこのタイトルに書いた「スプーンを作った意味は、カレーを食べてる人を見た時にしかわからない」ということです。

 

例えばあなたがスプーンを作るスプーン職人だとして、あなたはスプーンを作ってる最中は何故それを作っているかあまりわからないはずです。でも数ヶ月後それが出荷されて顧客の元に届いて、その顧客があなたが作ったスプーンを使ってカレーを食べてる時に初めて、あなたは自分のやった仕事の意味を遡及的に定義できるのです。

 

自分がやってることの意味は遡及的に定義されるのです。

 

これはもちろん、時間軸的に原因が結果を先行するからです。スプーンの例でいうとスプーンを作ることが、他人がそのスプーンでカレーを食べるという結果の原因なので、原因の意義は結果を見てからでないとわからない、即ち、自分がやってることの意味は遡及的に定義されるということな訳です。

 

 

しかしこれをさらに一層深く考えてみると、主観と客観によって説明ができそうです。

 

前提として私たちは経験を客観的に見れた時にのみ、そのことについて省みることが出来、さらに意味をラベルづけできると私は思います。

 

私が今スプーンを作っているということは、「私」という主体が主観的にスプーンを作っている行為ということであると言えます。ここに客観性は一切ありません。

 

しかし数ヶ月がたち、「私がスプーンを作っていた」ということを省みるという行為は、「私という主体が主観的にスプーンを作っていた」ということを客観的に見ているという行為だと言えます。

 

前提で言った通り私たちは経験を客観的に見れた時にのみ、そのことについて考えや思いを馳せさらには意味をラベルづけすることができるため、意味というものは遡及的にしか定義できないと私は思います。

 

 

結論的に、時間軸に沿った因果関係によっても、省みるという行為が客観性を要することによっても、どちらにしろ今自分のやっていることの意味わわからないということです。

 

 

だから今自分の置かれた状況ややっていることに疑問やそれゆえの苦しみを感じていても、意味なんてのは後になって省みた時にしかわからないので、続けるにしてもやめるにしても意味を今考えても仕方ないのです〜。

 

 

ふと考えたことをまとめてみました。

 

結構徒然なるままに書いたので矛盾や詰めの甘さなどがあればどんどんコメントください〜