自然ってそんなに保護すべき?
こんばんはー!
哲学とか自分が興味深いと思う授業を今学期はそんなにとってないので、哲学的なことを考えなさすぎてなんかつまんないです。
やっぱ人間のことを考えてる時がやっぱり超楽しい!
でもやっぱり考えるためにはなにかしらのインプットがないとだからやっぱり取る授業はほーんと大事。
まあ、そんなに面白くないうっすい内容ばかりをやってるHumanityの授業で最近扱ってるトピックについて考えたことをまとめたいと思います!
今週のトピックは「私たちは自然と深く密接してるから自然をないがしろにするな」みたいな感じのです。
デカルト的二元論(全ては善と悪や、物体と精神など、2つの相反するものもしくは2つのものに分けて考えられるっていうやつ)の登場から、自然は人間が支配するものみたいな機械論的自然観が西洋社会を中心に、産業革命期頃から広く社会に蔓延していったっていうのは知らなくてもなんとなーーくみんな感じますよね。
"MOTTAINAI"が世界標準語になったのはその機械論的自然観は違う!私たちは自然とつながっている!っていう思考を取り戻そうという考えが社会でホットになり始めてからですよね。
日本っていう国は自然が身近にずーっとあったこともあるせいか、そもそもそんな二元論的に考えるということすら頭になかったわけです。
西洋と日本の庭園を例に取るとわかると思うんですけど、ヨーロッパとかの庭はぜーんぶ完璧に計算されていて完璧に”人工的”なんですよ。
これは自然は人間が支配するものという思想が根底にあるからなんですよね。
でも一方で日本庭園を見てみると・・・・
もともとそこにあるかのように表現するのが日本でいう美なんですよね。
でも西洋の影響で日本はどんどんその価値観を失いつつある。
まあ、そのおかげで新しい価値観がたっくさん生まれているので一概に良いだとか悪いだとか言えませんが!
まあ、このように産業革命期以降、自然は壊しても人間だからいい!っていう考えが広まるようになるんですね!
それを違うんじゃない?って疑って是正していこうっていうのが近年の動向です。
そして授業もこんな感じで自然破壊はよくなーい!みたいな感じなんですけど、本当にそうなの?て思いました。
だって人間と自然はつながってるっていうなら私たちは自然の一部ってことですよね?
ってことは私たちの行動もそもそもは自然に基づいた本能から生み出されたものであって、私たちが自然の一部と主張するならば私たちの存在も行動も全て自然の一部ってことになるじゃないですか?
そしたらいくら私たちが自然を破壊して他の生命を圧迫したとしても、それは自然界の理であって、むしろ人間だということを棚に上げて「動物かわいそう・・」って思うことの方が不自然じゃないんですかね?って思います。
しかも生きるものは全て他の生命を圧迫して生きています。他動物の環境破壊は許されるのになぜ人間は許されないのですか?
これに対して、自然破壊のレベルが違うという人もいますが、うん十億年の地球の歴史で私たちが及ぼす影響なんて本当に少なくて、それこそ人間の基準で測ってしかいないと思います。
私たちが自然界の一部であるのならば、弱肉強食という根本的な自然界の理も当然当てはまります。
なので極論を言ってしまうと、何をしたとしても下が変えられる術を持っていないのであればそれは仕方がないということです。
そもそも私たちは自然とそんなにつながっているのでしょうか?
確かに人間の起源とかを考えれば、そりゃあつながってます。でも生死自体がとてつもない神秘なので、言語を用いてバラバラのものを”自然と、宇宙とつながってる!”って結んじゃってる気もします。人間はいろんなことを意味づけすることで安心する生き物なので。
でも私たちの生きてるこの地球自体が自然の意思で動いているので一部であることはもちろんなんですが、つながってて、だからこそ大切にしなきゃいけないってのはなんか人間の勝手なエゴなんじゃないのかなって思っちゃいます。
そんなことを考えていました!
まあ、考え方については批判的ですが、環境保護とかそういう行動自体にマイナスはないのでいいと思います!
なーんかごちゃごちゃしてますが、この思ったことを乱雑に吐き出すのが私のブログなので暖かく見守ってください笑
やっぱ人間とか世界について考えるの最高にたのっしいいいいいい
次の考える系の記事は「世界は偶然でできているのか?それとも必然でできているのか?」っていうの考えたいです〜
ではでは今日はそんなところで!