どれが自分の性格?どれが自分?
私は高校生の時によく考えてたことがある。
それは、「どれが自分の性格なのか?どれが本当の自分なのか?」ということだ。
私は小さい頃から元気で活発で委員長にいつも立候補するようなタイプだったし、目立つのも大好きだった。
と、周りによく言われていた。
両親にも色んな大人の人たちにも。
でもそれが、私が本当に好きでやっていたのか、周りからそう言われていたから、そうしなければならないっていう、いわば軽い強迫観念的なものからくることなのか、わからない。
みんな場に適した性格を持ってる。
わたしは、人間の性格というのは、接する相手によってその間に生まれるものだと思ってる。
図に書くと、
こうじゃなくて
こうだと思ってる。
小さい頃は単純だし、みんなの期待に応えたいが為に周りが求めることをしようとするから、あなたは明るいとかあなたは積極的っていうような育て方をすると自然と子供は「そうなんだ!じゃあそうならなきゃ!」って思うようになる。
でも大人になるにつれ、人ごとに性格が変わって行く自分を見て「自分は本当に明るい積極的な性格なのか?」と悩むようになり、自分をどう説明したらいいのかわからなくなる。
それがわたしの高校時代。
さっき貼り付けた図はなんか当たり前のように思えるけど、あれを見つけたあとはアイデンティティについて悩まなくなった。
自分を説明するって難しい。ありのままの自分とはそもそもなんなのか。ありのままでいるいうことはアイデンティティについて考えることを放棄することとも捉えられる。
でもその一方で、自分なんて説明できないのだし、たとえ説明できたとしてもそれに縛られることになるから、ありのままの自分でいるということは楽なことなのかもしれない。
でも私はこう思う。
自分とはなんなのか、ということは一生かけても一言で説明することは無理だが、自分とは?という問いをし続けることによって自分という存在を維持できると。
本当に自分とは何かということを発見する必要はないが、その問いをやめた時点で、あなたはあなたであることを放棄することになる。
と、そう思う。
常に自分と向き合うことは辛く大変だが、自分を見ることで相手を理解できるかもしれないし、相手を理解することでさらにそれを自分に当てはめて考えられる。
人生とは自己と他者の間で交わされる、予測ゲームの連続であると思ったこの頃である。