SNS批判に対して私が思うこと
よくSNS批判する人っていると思うんですよね。
SNSなんか時間の無駄だ!とか、ずーっとSNSやってるのは異常!とか。
でもそれって結構一方的ですよね。
私はまず良い経験は2種類に分けられると思うんですよ。楽しいだけの時間の記憶 と 充実した時間の記憶 の2つに。
まずここでいう充実した時間の定義というのは「何かを達成したときにのみ得られる、楽しいだけでは得られないものを得たとき」ということです。すなわち充実した時間の記憶のは長い間割と詳細まで残っています。なぜなら充実感は無償では、楽しいだけじゃ得られないから。
人生における充実感というのは、自分の設定した目標に向かって努力し、達成したときのみ得ることができます。
そこにおいては達成したことに対しての誇りや自信が身につくので、色んな人に伝えたり、色んな場面で説明したりすると思うんですよね。それによってさらに自分のしたことが明瞭になっていく。(文章化して説明するから自然と整理されていく)
それだけでなく、やっぱり苦労したことや、それによって得られたものってなかなか無い経験だから印象に残りやすいんですね。
一方で楽しいだけの時間というのは、お金と時間さえあれば誰でも得られることができます。努力は一切いりません。平日から逃れ、そのときそのときの瞬間を楽しむためにみんなが時間を費やしています。
でも楽しいだけの時間というのは充実した時間とは違い、詳細まで長い間覚えているのはなかなか難しいです。
考えてみてください。ここ1年以上 3年未満の間でした楽しいことで「楽しかった!」以外に細かいことまで覚えていますか?
恐らく詳細まで覚えている人はなかなかいないと思います。もし詳細まで覚えていたら、少なからず努力を注いだ、充実した時間だったと考えていいと思います。
しかしそこで役に立つのがSNSだと私は思います。
SNSは写真とともに文章を載せたりするので日常の何気ないモーメントを記録するにはぴったりのサービスだと思うんですよね。
その時したこと、その時一緒にいた人、その時考えたこと、感じたこと。そういったことはその環境で、その年齢で、さらにその時代でないと考えられなかったりできないことだったりします。
自分はこんな毎日、人生を送っている / きたんだと客観的に見ることができます。
私たちのほとんどはSNSを使っている時こんなことは全く考えないと思いますが、やはり振り返った時、思い出させてくれるのは全て記録として残っているものです。
結構な人が経験したことがあるかと思いますが、SNS上の、楽しいだけの時間の記録や、その時考えたことの記録を一年後とかに見返した時「え?これ私が書いたの?」みたいに思う節があると思うんですよ。
SNSに記録してすらそう思うんですから、そんな小さいことなんてなにもしなかったら思い出せすらしないのは当然ですよね。
振り返ることになんの意味があるんだって言う人もいるかもしれませんが、私の親友は「人生の全ては懐かしむためにある」と言っていました。その通りだと思います。
だからSNSは無駄ではないと思いますし、むしろSNSは必要だと思います。
しかしここで私が強く主張したいのは「SNSアカウントを消したら全てなくなってしまうような人生は送るな」ということです。
充実した時間の記憶があれば、楽しいだけの時間を多く記録したSNSアカウントがなくなっても、自分はこういう人生を送ってきたんだ!ということを自分に、他人に説明することができます。
しかし充実した時間の記憶がなければ、SNSアカウントがなくなった時に何にも残らなくなってしまいます。なぜなら覚えてられるものが何にもないから。
どちらもこなし、うまくSNSを使っていくのが必要です。
充実した時間がなければやはり、アイデンティティには苦しみますしね。
なので「リア充っぽい楽しいことをし続けたけど、案外なにも残りませんでした」ってことのないように全て全力で頑張るのが理想ですよね。
小さな目標でも、常に何かに向かって達成を目指していくことに重きを置きつつ、同時に毎日の瞬間を楽しみ、その記憶を記録していくことが良いんじゃないかなーっと私は思いますね。
ではそんなところで!